右手が鳴るのか左手が鳴るのか

山岡荘八の伊達政宗が面白い。
実家から家系図と共に届いた小説だが、祖父が買ったのか親父が買ったのかよくわからないが、
政宗と虎哉宗乙の掛け合い、政宗と秀吉の掛け合いが面白い。

虎哉宗乙は禅問答を、秀吉は権力を振るうために、政宗に問いかける。
その問いに答える政宗のへそ曲がりな回答が面白いんです。

そんな中興味をもったのが、禅問答=公案です。

伊達政宗の中にも「隻手音声」を例にとった掛け合いが出てくる。
虎哉宗乙が政宗に「拍手のように両手を打った時にその音は
右手から出ているか左手から出ているか?」と問い、
数年後に政宗が「孤掌(こしょう)は鳴りがたしのお訓(おし)え、しかと、胸におさめました」と答える。
この掛け合いだと何が何だか分かんないですね。

なので、「隻手音声」をネットで調べてみると、

「両手を打つと「パン」と音が響きます。しかし、隻手=片手の場合は
どんな音がするでしょうか?」という禅問答のようです。

片手だと音は出ないので、答えがないように思えますが、
右手が鳴っているわけでもなく、左手が鳴っているわけでもなく、
心で聞けば片手でも音はなっているということのようです。

自身悟りをまったく開ける気配はないので、禅問答の本質的な理解は横に置いておいて、
言いたいこととしては、右手と左手を対立の象徴としてとらえ、右手が正しいわけでも、
左手が正しいわけでもなくて、常識から離れてみると、答えは別のところにあるということでしょうか。

ただ「隻手音声」を調べていて、ビジネスの世界にも通じる物があると思い、
ブログを書いていますが、要するに左手で握手して右手で殴り合うと同じ意味合いかと思ってます。
殴り合っている所が音が鳴る所で、握手している所が心なんだと思う。

秀吉は傾(かぶ)いたり、使える人材は、許す器量を持って相手に対面し、
相手の理屈がどんなに屁理屈でも筋が通ればそれを許したように、
右手で殴りかかっているものの、左手を常に出しているそれが器量の大きさなんだと思う。

ビジネスの世界でも互いにそれぞれの理屈をぶつけ合って、殴り合っていて、
でもどこに左手が出ているか探るのが面白い所だと思っているけど、
最近左手を出していない人が多い気がする。とくに僕らと同じ世代の若い人達が。

年配の方達は左手を出していて、左手を探らせている上で右手で
殴ってきているなと感じれるけれど、同じ世代の人達は殴ることしか考えてないと思える。
考えていたとしても、本質は言い合っているそこにはないなと気がついてくれない気がする。
お互いの立場や、これまでの経緯などで、お互いの主張がかみ合わない事はよくあって
大概がその主張と主張はすでに本質とずれている事が多々ある。
そこで左手なのに左手がない。
ただまだ右手を出して来るならカウンター狙えばいいけど、左手も右手も出さずに心を閉ざす。

欧米は契約書が左手でこの左手があるから、互いに契約というルールに則って仕事をしている
と聞いたことがあるが、まだまだ日本は契約書ありきなビジネスではない気がする。
なのに左手が見えなくなるのは、器量を持っていないという意味では残念だし、
右手さえも出してくれないのは、いかんともしがたい。

ただ欧米も契約書の前に隠れて交渉すごくやってる気がする。
左手をかなり探り合っての表の左手(契約書)だと思う。

というわけで、ここは左手右手に期待せず、自分自身が「隻手音声」に戻って
悟りを開くべきなのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・無理だな。(笑)

もう少し公案を勉強してみるか。